寿徳寺について

寿徳寺の歴史

横浜市鶴見区江ヶ崎町寿徳寺には応安三年(1370)の板牌(石に刻んだ塔婆)と石塔の一部が残っており何らかのお堂か墓地などの仏教施設があったとも考えられています。
その後、元和元年(1615)、(一説には寛永年間)に現在地に寳泉寺六世の大室良奕大和尚(? ~ 1643)を開山として寺院としての形式が整えられました。

現在の檀家につながる信仰

現在の檀家につながる信仰については、同寺過去帳に寛永初年からの戒名が記されているので、寛文十一年(1671)の江戸幕府の寺檀制度(檀家制度)成立より前から鶴見区江ヶ崎の人々が戒名を受けてその死後の法要を行っていたことがわかります。

また庚申講という村の行事も早くから行われていたと思われます。寛文十一年(1671)に江ヶ崎の「道仁」(同人・仲間の意味)十一人によって建てられた菩薩形の庚申塔があります。

その後、寿徳寺の本堂は、江戸時代の明和年間(1764 ~ 1772)に建立されて現在に至っています。ただし、関東大震災で被災したため、倒壊した本堂の木材をそのまま再利用して昭和二年に建て直して再建されています。そのため本堂内の梁などには震災で折れた木を端を切ってつなぎなおしたことがわかる跡がみられます。

平成に入って耐震工事を行い、現在に至っています。また、平成18年(2006)の須彌壇修理の際に、須彌壇裏より安永3年(1774)の銘が見つかり、須彌壇も江戸時代当時、矢向の金子弥兵衛によって作られたものが現在まで使われていることがわかりました。

寿徳寺須彌壇裏面銘文

須彌壇

この寺は矢向・江ヶ崎の人々に支えられ、建立されたものでした。そのため、庫裏との接続の為に拡張された本堂の脇部以外は、江戸期のものが残っています。木材も江戸時代以来のもので、また須彌壇銘にもわかるように、この地域の大工が製作に関わっており、本堂十八世紀中頃の川崎・横浜周辺の本堂建築様式や技術を知るにも貴重な本堂であります。建築の際の寄附名簿も古文書として当寺に現存しており、矢向・江ヶ崎の多くの人々の協力を得て建設されたことがわかります。 また、寿徳寺に伝わる古文書には、幸区の塚越・小倉の人々の名もあり、寿徳寺にほど近い幸区の方も江戸時代からお寺を支えてくださっていたことがわかります。

お地蔵さま (地蔵堂)

寿徳寺境内の山門脇にあるお地蔵さま(地蔵菩薩)二体の像は、江戸時代に彫られたものです。小さい一体は庚申塔です。合掌する阿弥陀仏の庚申塔としては区内最古のものでございます。また、大きい一体は地蔵菩薩です。
庚申とは道教由来の信仰でありまして睡っているうちに体から三尸の虫が出て天帝に報告するという庚申の日(60 日に一度)は眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は人々が集まって徹夜で過ごすという風習です。これは「庚申待」と呼ばれる行事で平安時代から貴族の間で行われており、江戸時代には一般にも広まり、矢向・江ヶ崎の人々も行っていたことがこの寿徳寺の庚申塔を見てみるとわかります。庚申塔は寛文十一年(1671)に「道仁」(同人・仲間の意味)の人々によって建てられました。庚申塔というと古い時代のものは阿弥陀や大日如来・地蔵菩薩などその尊像の形が定まらず造立されるという特徴があります。寿徳寺の庚申塔は合掌弥陀庚申塔でして区内最古のものであります。庚申塔はさらに江戸時代も時代がくだっていくと徐々に青面金剛像になっていくという特徴があり、江ヶ崎でも、時代がくだる江ヶ崎八幡宮のものは青面金剛像であります。
現在も、供養などの申し込みがあった場合には、本堂で法要を行っています。
また同寺について詳しく書かれた論文は、藤木久志編『荘園と村を歩く』校倉書房 1997 や、『日本地名大辞典』(角川書店)や『日本歴史地名体系』(平凡社)などをご参照ください。(神奈川県横浜市鶴見区江ヶ崎町の項目)。