寿徳寺について

寿徳寺の歴代住職

『寿徳寺過去簿』『總持禅寺開山以来住持之次第』などからわかる江戸時代の寿徳寺住職たち

初代の御開山は、寶泉寺六世大室良奕大和尚(以下、大和尚の敬称略)でございます。2世は不白雷峰大和尚、3世は劫外不石大和尚と続いていきます。
中でも劫外大和尚は、川崎市中原区全龍寺の住持も勤めている方でございました。

寿徳寺四世の松翁玄鶴大和尚以降、しばらくは、寺社奉行との伝達を担った「江戸三ヶ寺」のひとつ青松寺系の人々が住職するようになっていきました。松翁玄鶴大和尚は寿徳寺で住職をつとめ、さらに旗本達の菩提寺である青竜寺、長州藩・土佐藩・津和野藩などの菩提寺である青松寺の住職をつとめていました。

同寺は江戸近郊にあり、青松寺に転住する前の学僧が住持する寺院として重宝されたと考えられます。さらにそうしたことから、近代になると同じく江戸三ヶ寺の一つであり、大名浅野家や赤穂四十七士の墓がある泉岳寺(赤穂浪士で有名)に関係する人が寿徳寺に入るようになりました。 江戸三ヶ寺は泉岳寺・青松寺・総泉寺のことで、毛利家はじめ江戸の大名達の菩提寺でありました。そこに設置された「学寮」は駒澤大学の前身の一つともなっています。

以下、4世以降の住職の事蹟を記します。武州(東京都・川崎市横浜市・埼玉県)寺院の場合、特に国名は記載いたしません。

寿徳寺5世雪岑秀存大和尚は総持寺20004世に瑞世しました(瑞世とは、天皇・朝廷より勅書を受けて総持寺に一夜住職を勤めること)。秀存であろうと考えられています。受業師・嗣法師はいずれも、『洞上聯燈録』という全国の曹洞宗の僧伝集を作成した学僧、嶺南秀恕であります(『總持禅寺開山以来住持之次第』)。また、山口洞泉寺11世に、寿徳寺五世とほぼ同名の雪岑(せつしん)周存がいますが同一人物かは不明です(『曹全』「大系譜」)。

寿徳寺6世大威秀猊大和尚は寛延3年(1750)3月11日に大本山総持寺に瑞世して総持寺22219世を勤めています(『總持禅寺開山以来住持之次第』)。 ※秀猊大和尚は22220世東光寺栄明、22221世静翁寺桓隆と同日に瑞世しています。秀猊大和尚も青竜寺および、大名家の菩提寺である青松寺住職となっています。

寿徳寺7世知絶統音大和尚は総持寺23393世「常仙寺 統音」として宝暦5年(1755)に総持寺に瑞世した人物の可能性があるようです(『總持禅寺開山以来住持之次第』)。

寿徳寺9世大倫戒栄大和尚は寿徳寺の現在の須彌壇を造営した人物で、寿徳寺の本堂再建をなした人物でありました。

寿徳寺15世天桂祥瑞大和尚は、文化14年(1817)に現本尊の再興を行い、同15年に台座を寄進しています。

以後、明治維新・戦前戦後の激動を乗り切り、現在、28世無関良弘にその伝灯は受け継がれています。