矢向・江ヶ崎の歴史
2015年に代表の
鴨志田さんをはじめ、
矢向・江ヶ崎地域の編纂委員の方々のご尽力により『わがまち矢向・江ヶ崎』が刊行されました。そちらもご参照ください。
矢向・江ケ崎の記憶、冊子に
矢向・江ヶ崎と二ヶ領用水
江戸時代、鶴見川流域では矢向・江ヶ崎・小倉・市場・菅澤・潮田が二ヵ領用水という用水の恩恵を受けた。また、近隣を流れる矢上川も必要な水量が十分でなく、矢上川流域では(元住吉・武蔵小杉や武蔵中原周辺にあたる)、木月・子母口・明津・井田の合せて10ヶ村がこの用水を使った。こうした用水により、江ヶ崎・矢向地域の生活は成り立っていたのである。
二ヵ領とは何か
二ヶ領とは武蔵国橘樹郡内稲毛領・川崎領のことで、二ヵ領用水はその二つの場所を流れることからいう。領とは、武蔵国の行政単位である郡をさらに、小さなまとまりに分けて、時に郡をまたがりながら分けたものである(神奈川領・小机領には都筑郡に属する村も属している)。武蔵国橘樹郡には、稲毛・神奈川・小机・川崎の4つの領があるが、そのうちの稲毛・川崎を流れた。稲毛領は57ヶ村、川崎領には26ヶ村を数えている。二ヶ領用水を利用していた十ヶ村は全て川崎領となっており、稲毛に属していた矢向・江ヶ崎も「川崎領」とされている。こうした領の関係もあり、矢向・江ヶ﨑は川崎宿の助郷でもあった。戦国時代、永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳』に、「稲毛矢向」とあり、もともと矢向・江ヶ﨑地区は稲毛であり、江戸時代にも「稲毛庄」(矢向最願寺の梵鐘)と記したものがあるが、治水の行政の関係もあり、川崎領とされたのであろう。寿徳寺にある念仏講のかねには、「川崎領」と江ヶ崎のことが記されている。
矢向村・江ヶ崎村の江戸時代
矢向村は三つの知行所に分郷となっており、新見出羽守知行所、松波五郎左衛門知行所、誓願寺領それぞれに名主がたてられていた。
それに対して江ヶ崎村は、『風土記稿』によると天正19年の検地以来、旗本の荒川氏の知行所となり、江戸時代を通じて不変であった。
『寛政重修諸家譜』によれば、荒川重世(長兵衛)は天正19年に武蔵国の都筑・橘両郡内に400石をあてがわれた。重世はのちに出世し、最終的に合わせて850石余を知行している。
江ヶ崎村は隣村の矢向村からの分村とする記述がある(『武蔵国風土記稿』)。そうした事情もあってか、現在に到るまで、矢向・江ヶ崎は一体となって町内の維持に取り組んでいる。同書には、江ヶ崎という村名は、鏡のような形の矢向村に対して、その柄に似た形に由来するという一説があることを示す。
江ヶ崎村は『風土記稿』によれば、民家は28軒で、東通り(村の東)・西通り(村の西方)・江尻(西のはずれ)・堰(北の方)の小名があり、寿徳寺が村の東よりに、八幡社が東通りに(神体は本地仏正観音坐像であり、寿徳寺持ちで右の方に伊勢稲荷を合祀する)、第六天社が村の東の方の矢向村との境にあった(南向きの小祠で寿徳寺持ち)。八幡宮は村の東にあり、寿徳寺の東に位置した(ただし、国鉄操車場敷設により昭和3年10月に現在地(寿徳寺の南方)に移転)。第六天は村の南にあり、矢向の道下に接したが、八幡社に明治時代に合祀され、その後現在地に移転した。
八幡宮の御神体は「正観音(『風土記稿』)」とされているが、像容からすれば寿徳寺の本尊と同じ釈迦如来坐像である。
三大八幡宮の宇佐八幡宮・石清水八幡宮の御神体が歴史的には、僧形八幡(僧侶の姿をした八幡神)であるとされてきたことを考えれば、僧形八幡を意識して祭祀された御神像とも考えられよう。
明治維新以前の、神仏習合(神も仏も一体であるという考え)の時代から伝わる文化史的価値の高い御神体である。